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当時、大阪音楽大学客員教授として関西に在住していたアルント・ドルゲ氏に教えを受ける。 |
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当時西独のデトモルト音楽大学のF.W.シュヌア教授のピアノのクラスに入学、教えをうける。 |
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音楽大学コンクールへ派遣され、同年の開催地フライブルグで"もうひとつのピアノ"に出会う。 |
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フライブルグ音楽大学のV.マルグリス教授のクラスに入学、教えを受ける。 |
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故ローザ・サバテア教授(1983年マドリードの飛行機事故のため死去)に出会い教えを受ける。(1979年メンデルスゾーンコンクール・ファイナリスト) |
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コンクールの準備中に痛めた右手から、遂には右側の運動機能・筋肉組織に障害を起こし、完全にピアノ演奏を断念して、治療に専念する。(治療法を探す。) |
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運動機能に障害の残ったまま、フライブルグ音楽大学故ティボー・ハザイ教授(2004年1月死去)のクラスに再入学を許される。手の中の筋肉組織について、自身もピアノのテクニックを基礎から作り直したピアニストに教えられる。故サバテア教授の演奏テクニックへの道を見つけて、ゼロから作り始める。運動機能に障害の残ったまま、フライブルグ音楽大学故ティボー・ハザイ教授(2004年1月死去)のクラスに再入学を許される。手の中の筋肉組織について、自身もピアノのテクニックを基礎から作り直したピアニストに教えられる。故サバテア教授の演奏テクニックへの道を見つけて、ゼロから作り始める。
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フランスの放送で、B.セルヴァの1930年の録音に出会う。 |
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カールスルーエ音楽大学の故ヴェルナー・ゲヌイット教授(1997年死去)のマスター・クラスに入学。 |
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ソリスト試験。オーケストラ試験をW.ライスキー指揮のポーランド・フィルハーモニーとベートーヴェンの5番コンチェルト"皇帝"で行う。 |
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B.セルヴァが1919−1923年に"ピアノのテクニックの音楽的教授"という本を書いたと知り、この本の正確な理解のためにとフライブルグ大学哲学部音楽学科に入学。
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コンサート活動を始める。フランクフルト、ベルリン、大阪(宝塚ベガ・ホール)でリサイタル。 |
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フライブルグで初めてのリサイタル。冬大阪でリサイタルをして、大阪府民文化賞をもらう。 |
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自分の出会ったテクニック(故サバテア女史、B.セルヴァらのテクニック)が、クラヴィコードの奏法がウィーン式メカニックの楽器の奏法を経て、現代まで生き残ったものという発見・確信に基づいて、"もう一つのピアノ−ウィーン式メカニックの世界"というタイトルの元に、今のスタインウェイ(イギリス式メカニック)と1846年のストライヒャ−(ウィーン式メカニック)の2つの楽器で2晩のリサイタルをする。
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フライブルグ、ベルリンと宝塚ベガ・ホールでリサイタル。音楽の友社の雑誌"ムジカ・ノーヴァ"に音楽の変遷に付いて書いた文章が掲載される。 |
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フライブルグ、大阪(宝塚ベガ・ホール)でリサイタル。大門酒造・酒蔵で同じ曲目をクラヴィコードで演奏する音楽会をする。 |
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フライブルグと大阪でリサイタル。夏、熊本大学教育学部ピアノ科で鍵盤楽器について講習をする。 |
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神戸新聞の後援を得て、松方ホールで古い調整のスタインウェイで"もう一つのピアノ"というタイトルでリサ イタルを開く。9月、大阪・豊中の梅花教会でチャリティー・コンサートが始まる。
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フライブルグでリサイタル。友人たちの勧めに従いベルリン・フィルハーモニー室内楽ホールでの"もう一つのピアノ"のリサイタル(2004年6月)の準備を始める。 |
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フライブルグ市からドイツでの(EUでの)永久労働許可と永住権を与えられる。 |
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