Ko Ryoke's Notebook
領家幸 の Blog 2006 & 2005
もう一つのピアノ (June 17, 2004)
2004年5月4日宝塚ベガ・ホールと 6月10日ベルリン・フィルハーモニー
室内楽ホールでの音楽会の曲目について
2004年4月27日; 友人のスクリアビンリサイタルの プリグラムに寄せて書いた解説文です
推薦書 (Dr.マルクス・バンドゥア)
"もう一つのピアノ" (June 17, 2004)
ことの始まりは、全く違った反応をするピアノとの出会いでした。
このピアノの鍵盤には、はっきりした抵抗を感じる点(アフタータッチ)がなく、鍵盤も恐ろしいほどの軽さで動きました。鍵盤の底で連打を入れることが出来たし、音が出たあとで、音を
更に大きくする事も出来ました。(この違った演奏文化を私に見せてくださった、2人の芸術家の一人であるマルグリス教授は、レッスンでいつも私達学生に、"ピアノの音が減衰振動
であるというが、そうではない。"と言っていました。)このピアノでは、響きがとても純粋で、音同士の共鳴が良く聞こえ、そのせいで和声の色合いの変化もはっきりと聞く事が出来ました。
このピアノで、レニングラードから来られたマルグリス教授とバルセロナ出身のサバテア教授の二人の芸術家が、音楽の全く違った表現というものを聞かせてくださいました。この2
人の先生は、表現様式・美意識において大変に異なっていましたが、演奏法に関して2,3の共通な点がありました。それは、音が次の音まで完全に"生きている"ように、鍵盤のそこ
の指先にかけた重みを少しも緩めないこと。これによって音は自然に隙間無く繋がっていきました。もう一つは、楽器で歌わなければいけないということです。サバテア女史は更に、細
やかで速いパッセージまでも、常に彼女が私達に言ったように、"お前が歌うように"演奏しました。私はこのとき初めて、ピアノで歌を歌うときと完全に同じように歌える、ということを見
て了解をしました。
このピアノ―"もう一つのピアノ"に出会うまで、私の知っていたピアノは、鍵盤にはっきりし
た抵抗点があり、弾く時にこの点をねらって意識していました。この点を通過すると、鍵盤のそこなどでは何も起こらず、音は打鍵の後は弱まっていくばかりでした。
"もう一つのピアノ"では、総てが全く違っていました。
ピアノは、1698年に初めて作られましたが、このとき、ピアノの構想の元になった2つの楽
器がありました。チェンバロとクラヴィコードです。
チェンバロは、弦を引っ掻いて音を出す楽器です。鍵盤を押すと、鍵盤の台木の反対側に取
り付けられたキール(爪)が、上に上がっていく途中で、弦を引っ掻いていきます。この時チェンバロ特有の、風情のある響き豊かな音が出てくるのです。ただ、この音は段々と弱まって
いく類のもので、またタッチによって強弱をつけるということも、チェンバロには出来ませんでした。
クラヴィコードでは、鍵盤を押して底に着くと、鍵盤の台木の反対側についたタンジェント(薄
い金属片)が弦を押し上げるようになっています。この時に音が出てきますが、クラヴィコードのこの音はか細すぎて、大きな広間ではもはや聞き取る事が出来ません。ただ、タンジェン
トが弦を押し上げている限り、音は"生きて"のびています。タンジェントにかける重みを更に加えれば、音は大きくなります。このようにして、クラヴィコードでは、ひとは自分の声で歌う
ときと同じように旋律をうたう事が出来ました。
この2つの楽器から生まれ出たピアノは、発展の途上でも、全く違った2つのメカニックの楽
器に分かれていました。豊かな音と響きのイギリス式メカニックと、軽やかな動きの鍵盤で旋律を滑らかに歌えるウィーン式メカニックです。イギリス式メカニックでは、メカニックの動き
が鈍くて重く、鍵盤は動きにくいものでした。後にシューマン夫人となるクララ・ヴィークは、演奏旅行先のパリからシューマンにあてて、自分は軽やかなウィーン式メカニックに慣れて
いるので、重いイギリス式メカニックの楽器は、少し弾くとすぐ疲れてしまう、と書き送っています。
イギリス式メカニックには、このように滑らかさ、殊に音の連打の点で問題がありましたが、
エラールのダブル・エスケープメントの発明によって、イギリス式メカニックはウィーン式メカニックの楽器を次第に凌駕するようになっていきます。この発明は、イギリス式メカニックでも、
弾いたばかりのその音を再びすぐに打鍵できるようにするものでした。これによって、ダブル・エスケープメントのついたイギリス式メカニックで、速いパッセージも難なく弾けるようになり
ました。これに更に2つの弦を張ることに関しての発明−鋳鉄の枠と交差弦が加わって、より長い弦をより強い力で張る事が出来るようになります。
イギリス式メカニックの楽器は、更に響き豊かに力強い音を出せるようになり、19世紀の半ば頃から、ウィーン式メカニックの楽器を段々と市場から追い落としてゆき、20世紀の初め
には、ほとんどと言ってもよいほど、ピアノはイギリス式メカニックのものとなっていました。
響き豊かに力強いものと軽やかに歌うもの、この2つの楽器の方向性は弦を張った鍵盤楽
器の歴史の中で常に存在していました。この2つは異なった美意識を示し、当然のことながら奏者に全く違った演奏法を要求します。ウィーン式メカニックを追い落としていく過程の中
で、イギリス式メカニックは、ウィーン式メカニックの楽器の奏法にも対応できるように、幾つかの調整の可能性を持つようになったに違いありません。
"もう一つのピアノ"は、クラヴィコードからウィーン式メカニックの楽器に引き継がれた、ある種の奏法が生きのびる為の、イギリス式メカニックの妥協の解決案ではなかったか、と思います。
いずれにせよ、"もう一つのピアノ"を知って以来、音楽作品がまったく別のものに見え始めました。そうして、この演奏文化を自分の中に取り入れれば取り入れるだけ、音楽は更に新
しい面を開いてくるようです。 領家 幸
(2004年6月10日ベルリン・フィルハーモニー室内楽ホールのリサイタル・プログラムノートの原文を自分で日本語に訳しました。)
2004年5月4日宝塚ベガ・ホールと 6月10日ベルリン・フィルハーモニー 室内楽ホールでの音楽会の曲目について
パルティータ第1番は、バッハ41歳の時の作品です。この曲を始めとして、毎年一曲づつ作
られた6曲の鍵盤楽器のためのパルティータは、バッハの全作品の中でも特別な位置を占めています。6曲目が完成した1731年に、バッハは全6曲を1巻にまとめて作品1として自
費出版をしました。この頃、決して出版がまだ一般的なことではなく、バッハのそれまでの作品も写譜によって手渡されていたことを思えば、この作品1の出版にこめたバッハの思いが自ずと伝わってきます。
パルティータは、小部分からなるもの、つまり組曲(Suite,Ordre)のことです。組曲は、この頃の文化(音楽)の先進地の一つであるフランスの宮廷で始まった新規な形式で、様々な
舞曲を同一の調性で繋いでいったものです。バッハの頃には、既に元々の舞踏性は失い、構成も、基本としての4つの舞曲、アレマンド、クーラント、サラバンド、ジーグが定着をし始
めて、独立した純粋な器楽曲となっていました。バッハは、ワイマールの宮廷楽長時代(1708-17)に今日イギリス組曲と呼ばれる6曲と、更にケーテン宮廷楽長時代(1717-22)
にフランス組曲6曲の習作を作曲しています。ワイマール時代にバッハは、もう一つの文化先進地イタリアで生まれた新しいコンチェルトという形式をヴィヴァルディの作品で分析して
吸収しています。これは同時に、イタリアの弦楽器曲のきらびやかな技巧の吸収でもありました。イギリス組曲には、このコンチェルトの影響が色濃く出ています。ケーテン時代に入る
とバッハは、彼の息子・弟子達が“歌うような”奏法ができるようにと、インヴェンション、シンフォニアといった学習用の曲を作曲し、また更に調性というものを探求した“平均律第1巻”
の24曲、ヴァイオリンでの多声音楽の可能性を探した無伴奏パルティータ6曲をも創りだしました。
ライプツィッヒに移って、鍵盤楽器のパルティータに取り掛かる頃には、バッハは既に鍵盤楽
器の表現というものも熟知して、またイタリア様式、フランス様式といったものも自在に扱えるようになっていたと思われます。実際このパルティータ6曲のなかには、双方の様式は渾
然一体となって現れています。第1番は、クーラント、サラバンドがイタリア式のリズムで書かれ、またジーグもきらびやかで技巧性が高く、6曲の中でもイタリア様式の色が最も濃く出た作品です。
ちなみに、この出版は大変な反響を巻き起こし、バッハは更に、イタリア協奏曲、フランス式序曲、ゴールドベルク変奏曲といった作品を出版することになります。
バッハのパルティータでは、既にソナタ形式の萌芽、提示―展開―再現という構成が見られる、と多くの学者が指摘しています。バッハの頃にはまだ萌芽だったソナタ形式という楽
曲の形式は、ベートーヴェンがそのほぼ100年後に作品110の変イ長調のソナタを作曲する頃には、バッハの2人の息子達、ハイドン、モーツァルトといった人たちの時代を経て、しっ
かりと確立して奥行きも深まり、音楽の形式として最高度の完成域に達していました。
ほとんど同時に着手した最後の3つのソナタで、ベートーヴェンはこの高度に完成した形式
を打ち破ることになります。1820年の作品109の第1楽章で最も顕著に表れていますが、これは形式を打ち破る為の試みというよりは、中に盛り込む音楽が大きくなり、自然に枠が
毀れることになったというほうが正確です。一年後に完成する作品110では、第1楽章はかろうじてソナタ形式にあてはまりますが、主題、副主題の対比はもはや定かではなく、それ
ぞれはもっとちいさなモティーフに分解されて、モティーフが様々に組み合わされて現れます。第二楽章は、従来どおりの中間楽章で、トリオを伴ったスケルッツォです。ここでベートー
ヴェンは、諧謔の楽章らしく、2つの俗謡、学生達が酒場で酔って歌う、“うちのネコちゃんは、子猫を生んだ。”と“俺はだらしない。君もだらしない。”の旋律を用いています。第3楽章
は、オペラのようなレチタティーヴォと続くアリオーゾの“嘆きの歌”で始まり、そのあとにフーガが続いていますが、フーガがその頂点に達した時に再び“嘆きの歌”が現れ、やがてフー
ガのテーマの転回(裏返しになったもの)の部分とすべてのモティーフが現れて統合される大団円の終結へと導いています。ソナタ形式が、フーガという形式を元にしてその様々な要
素を吸収して完成してきたことを思えば、ここでベートーヴェンはソナタの原点に帰ろうとしているかのようです。実際、フーガのテーマと第1楽章の主題は、骨組みが同じ、実は同一の
ものです。テーマでは繋がっていない第二楽章を第三楽章の導入部と思うと、このソナタは単一のテーマで出来上がったひとつの有機体にも見えます。この曲の終結部は、それまで
の総てのモティーフが組み込まれた、“完成された大団円”で、この後に作曲される第9番の交響曲の終結(“苦悩を超えて歓喜へ”)と比較され得るものですが、同時にまた、最後
の3曲のピアノソナタと同時並行して作曲されていた“ミサ・ソレムニス”との類似も明らかです。殊に作品110はこの曲と同時に出来上がった、“Agnus Dei”と“Dona nobis pacem”(
人間の地上での苦しみと神による救済)の部分と非常に緊密な関係にあります。
この曲が作られた1821年、ベートーヴェンは、後に彼の命を奪うことになる肝臓病の初め
ての発病に見舞われます。やっと回復した晩夏から作曲に入り、完成はクリスマス12月28日の日付けです。同じ頃作曲した弦楽四重奏曲にも、ベートーヴェンは健康回復の感謝
の祈りの歌を入れており、構想段階では作品111とともに、デ・ブレンターノ夫人に献呈する積もりであったのを止め、この作品だけ誰にも献呈されてないこととも考え合わせると、神
への直接の感謝の捧げものとして完成したものと思われます。
出版は、1822年7月にシュレジンガ−社からパリとベルリンで同時に発表され、一月後にロンドンとウィーンがこれに続いています。
友人で、仕事を助けて呉れている、ユリウス・フォンタナにあてて、“(やっと)前奏曲集を君に送るよ。君とヴォルフとで写譜をしてくれ。もう間違いは無いと思う。コピーをプロブスト(ベ
ルリンの出版社のパリ代理人)に、オリジナルを(パリの出版業者の)プレイエルに渡してくれないか。”と書いた手紙と共に、ショパンがパリに原稿を送ったのは1839年の1月22日
のことです。冬の間陰鬱なパリを離れて温かい土地で病気の療養をする為、ショパンはジョルジュ・サンドと彼女の子供達に伴われて、前年の11月からマジョルカ島に出かけていま
した。懸案の前奏曲集の完成という目的もありました。いつの頃からショパンが、24の全部の調(12の長調と12の短調)を経巡る小曲の曲集を作る構想を持ったかは定かではあり
ませんが、マジョルカ島に出かける頃までにはかなりの部分の前奏曲が既に出来上がっていて、作品番号28がこの曲集の為に空けられたまま、作品29から34までの作品が先に出版されていました。
前奏曲(Prelude)は、リュートの調弦から来た言葉で、やがて弦楽器、殊に弦を張った鍵盤楽器の調律が上手く出来たかどうかを見る、試し弾きのことをさしていました。そのうちに大
事な曲の前ぶれの曲をそう呼ぶようになります。バッハは、“平均律曲集第1巻”(1722)で各調のフーガの前に前奏曲を配しています。また、パルティータでもうちの2曲を前奏曲で
始めています。調弦の伝統が生きていた時代の、かろうじて呼び名と実際が一致していた時のことです。
ショパンの頃には、調律は最早自分ではしなくなっていますから、プレリュ−ドは名前として
のみ生き続けていますが、ショパンは、バッハの音楽に最大の尊敬の念を持っていて、その平均律曲集を自分でも常に弾き、また弟子たちにも弾かせていましたから、自分でも24
の全調性の色合いを探求する気になったのは全く自然なことです。それはショパンだけのことではなく、平均律が調律法として完全に定着して来たせいか、この頃になって沢山の24
の全調性を経巡る小品集が作られています。小品の呼び方は、作曲家によって様々です。曰く、カノン、練習曲、作品。何人かの人は、ショパンと同じくプレリュードと名づけています。
ショパンのプレリュードが発表されると、その練習曲を“天才だ!諸君脱帽!”と音楽評論に書いたシューマンは、“奇妙な小品だ。スケッチとも練習曲の一部分とも・・”と言いました。
また斬新な和声は当時の人々、殊に批評家には理解し兼ねるものでした。ショパンはこの曲集で、言葉のもとの意味どおり、各調性の色合いそのものを試しているようです。この作
品を認めた人のひとり、マリー・ダグー伯夫人は、リストの承認サインつきの批評で次のように書いています。“ひたすら丹念に吟味していくと、この作品が豊富に持っている、多様さ、
苦心、知識の裏付けに気づいて感嘆します。すべてが新鮮で、しなやかで、瞬間の衝動によって作り出され、自在な表現に富んでいますが、これは天才の仕事のみが持てる特徴です。”
ショパンのこの作品によって、前奏曲は短い自由な曲の形式として確立し、その後に、ドビュッシー、スクリャービン、ラフマニノフ、ショスタコーヴィッチといった20世紀の作曲家達が、
その霊感のおもむくままに様々な前奏曲集を生み出すことになります。
領家 幸 (May 2004) 2004年4月27日 友人のスクリアビンリサイタルの
プリグラムに寄せて書いた解説文です その作品が発表されてから百年近く経った今日では、私達はドビュッシーの音楽の斬新さ
といったものに、少し無感覚になっているように思われます。けれどもドビュッシーの音楽は、独自の美学に導かれたもので、それまでの理論とは全く次元の異なるものでした。若年
の頃、パリ音楽院での作曲理論の先生で、ドビュッシーの音楽と才能を評価していたギローが、"美しいかもしれないが、理論的には無茶苦茶だ。天才なら構わないかもしれないが
・・。"と心配して言うのに対して、"ここには理論はありません。聴覚が判断することです。美しい響きなら、それは許されます。"とドビュッシーが答えた、という逸話が残っています。
このドビュッシーはまた、子供の時にショパンの弟子であった人からピアノのてほどきを受けたので、ピアノを弾くと楽器から出てくる響きは独特のものであったと多くの人が伝えていま
す。(ドビュッシー自身、これはショパンのテクニックで、"自分のピアノ演奏はこの人のお陰だ。"と言っていました。1915年にデュラン社がショパンの練習曲集をドビュッシーの校訂で
出版することになった際、"モーテ・ド・フルーヴィル夫人が生きていたら、どんなに喜び、また参考になるはなしを聞かせてくれたことだろうか!"と、この先生のことを手紙に書き残し
ています。)そういうドビュッシーが、独自の音楽美学・理論でピアノ音楽の世界に持ち込んだ新しさは、当時の弾き手にも聴衆にも、また楽器そのものにとっても全く未知の領域のも
のでした。フランスを代表するピアニストとなったマルグリット・ロンは若い頃、"その新しさを畏敬するがゆえに作品に手をつけることが出来ないでいた"ところを、ドビュッシーに勧めら
れてその作品のレッスンを受けた人ですが、次のように語っています。"ドビュッシーの音楽では、しょっちゅう素朴な風景の絵を見出す事ができる。それは様々な詩で、優しいもの、ユ
ーモラスなもの、或いは威厳に満ちた儀式のようなものが互いに入り交ざって、時にはからかうかのように、また時には戦闘的に語られる。どのようにしたら一体、こういった元々の美
しい表象を再現できると言うのだろうか?どの大ピアニストの演奏を聞いても、私には納得のいかないものだった。だが、ドビュッシーが彼の作品を弾くと、素晴らしくて、また比べよう
のないものだった。・・・そのしなやかさ、なんともいえぬ柔らかさ。指が愛しむように鍵盤を撫でると、響きは無限の陰影に満ちていた。"
前奏曲集の第1巻は、1909年12月から1910年の2月にかけて書き上げられました。このころドビュッシーは、後に彼の命を奪うことになるガンの痛みにひどく苦しめられながらも、ディ
アギレフのロシア・バレー団の作品依頼を受け、また何年か越しの作品のオーケストラの為の"イマージュ"を完成させようと苦心を重ねています。この12曲の前奏曲は、そういった苦
闘の間の、つかの間の自由な空想のはばたきをかきとめたかのようです。"版画"、2つの"映像"と同様に、ここでも12の情景が描かれていますが、それまでの作品とは違って、"弾
き手や聞き手が、音楽を弾き(聞き)終えて自分の心の像(イマージュ)を得てから初めて、情景の題に気づくように"という配慮から、題をそれぞれの曲の後ろにとドビュッシーは指示をつけています。
1曲目の"デルフォイの舞姫たち"は、古代バッカス神殿の巫女達の踊る様を描いたもの。ルーヴル美術館の壺の絵柄からの想像です。"帆"は、漁船の泊まる夏の夕方の港の情景
を描いたもの。ドビュッシーは手紙に、"波が行っては帰りの絶えることのない繰り返しは、いつしかメランコリーのなかに消えてゆく。"と書いています。"野を渡る風"は、ドビュッシー
の好んだ詩人、ヴェルレーヌの詩集からの銘句、"風は野で、いきをとめる。"から得た情景。4曲目の"響きと香りが夕暮れの大気に漂う"は、暑い夏の夕暮れの情景。ボードレール
の詩"夕べの調和"から霊感をえたもの。"アナカプリの丘"は、ナポリの沖に浮かぶ小島、カプリ島の高い丘の情景。アナカプリの町の鐘がなり、やがて、人々がにぎやかに毒ぐもの
踊りタランテラを踊っているのが伝わって来ます。"雪の上の足跡"は、凍りつくような冬の景色。雪原にただ一筋残る足跡は、ひとのこころの果てしもない孤独の象徴であると、解釈
されています。続く"西風の見たもの"は、アンデルセンの作品"天国の庭園"のなかで、西風が自分の見てきたものを語る部分から得た景色です。重苦しく垂れ込める空、荒れ狂う
大洋、ごうごうという強い風。8曲目の"亜麻色の髪の乙女"は、ドビュッシーが1882年に一度歌曲にもした詩、ラコンテ・ド・リールの"スコットランドの歌"から、うまやごしの花の中
に座って歌う、さくらんぼの唇の美しい乙女が再び描かれています。"さえぎられたセレナーデ"はスペインの夜の情景。窓を開けて乙女がよりかかると、2人の求愛者がギターを抱え
てやってきて、窓の下で互いに競います。10曲目の"沈める寺"は、ブリュターニュの古い伝説を描いたもの。神の怒りにふれて海の中に沈んだイスの町が、晴れた日の朝、静かで
透明な海から浮かび上がって来て、朝日を浴びた大聖堂の鐘が鳴り、中で聖歌を歌っているのも聞こえてくる。だがやがて、神の怒りにふれた町は定められたとおり、海の中へと再
び消えて行く。"パックの踊り"は、シェークスピアの"真夏の夜の夢"の悪さを働く妖精パックを描いたもの。最後の"ミンストレル"は、ダンスホールの情景。アメリカ風に極彩色で描か
れています。 * * * 1904年頃から、スクリャービンは神智学(Theosophie)に興味を持ち、段々と傾倒をしてい
きます。1908年に妻タチアナの生まれ故郷のブルッセルに居を移す頃には、神智学において、人類を救う神の教えを実行に移す存在としてのプロメテウスを音楽で表現しようという
構想を既に抱いていました。ブルッセルでは同じように神智学に傾倒する芸術家達、画家のジャン・デルヴィルや作家のエミール・シゴーニュのプロメテウス作品に刺激を受けて、"
火の交響詩−プロメテウス"作品60を翌年に完成しています。
この作品は、スクリャービンにとっても、それ以降に続く私たちにとっても、多大な影響を持
つ画期的なものです。この作品でスクリャービンは、それぞれが増4度とも減5度とも取れる音程−この音程はまた奇妙なことに、リストが彼の交響詩"プロメテウス"で、大胆さとそれ
に伴う苦しみ・痛みのテーマとして選んだものでもあります。−で隔たった6つの音からなる和音を主なる響きとして、旋律もこの和音を構成する音からのみ成り立つ音楽を生み出しま
した。この主なる響きの和音は、"プロメテウスの和音"とも"神秘の和音"とも後に呼ばれますが、それまでの機能和声の三和音とは全く異なる響きで、機能・調性というものを決め難
いものです。これにより、これ以降のスクリャービンの音楽は、和声の機能による進行からも調性というものからも解放されて自由なものとなります。シェーンベルクが苦難の末12音技
法で、無調性で限られた音でのみ成り立つ、セリエルの音楽を生み出すに至るのはこれよりも10年後のことですから、スクリャービンこそが実は、音楽史上初めて無調性のセリエル
の音楽を作曲したということになります。
1908年にはスクリャービンにとって、もうひとつ大事な出来事が起こっています。セルゲイ・
クーセヴィツキとの出会いです。クーセヴィツキは、後にアメリカに渡ってボストン交響楽団を組織した人ですが、この時期夫人の持参金を支えに、コントラバス奏者・指揮者・出版者・コ
ンサートとオーケストラのオーガナイザーとして、独創的な才能を存分に発揮してロシア音楽界を震撼させていました。クーセヴィツキは、スクリャービンの才能を認め、作品の出版と、
また指揮者として作品を演奏して紹介に尽くすことになります。このクーセヴィツキの強力な支援によりようやく、スクリャービンの作品が高い評価を得て、作曲家としての名声が固まっ
ていきます。1910年、スクリャービン夫妻はこのクーセヴィツキに勧められて、6年にわたる長い国外放浪を終えてモスクワへと戻り、翌11年に"交響詩プロメテウス"はクーセヴィツ
キの指揮でモスクワ初演が行われ、大成功を収めています。
ソナタ第6番作品62(1911)は、今夜次に続くポエム・ノクテュルヌ作品61(1911/12)
とともにプロメテウスのあとに続いて書かれた作品で、心理的な内容は両曲とも、極めてプロメテウスに近いといわれています。この甘く斬新な響きを持つソナタのことを、"怯えさせて
、煤で一杯で、薄暗く、神秘的で、汚れてもいて、害をもたらす。何とも言いようの無いものをこの音楽は発する。"とスクリャービンは言い、演奏会でも内輪でも一度も弾いた事が無く、
極稀に一部を友人の前で弾いた後では、"あたかも壁や床から蒸気が立ち込めてくるかでもあるように、ギョッとしてピアノから離れて立っているのが常だった。暗黒の虚無を覗き込
んだ人のようだった。"と言われています。このソナタではじめて、スクリャービンは調性を表す調号をつけず、また内容が彼にとって怯えるほどのものであるせいか、内容を表現した詩を添えていません。
ポエム・ノクテュルヌ作品61は、ポエムと名づけられているものの、2つのテーマをもつソナタ形式で書かれています。ノクテュルヌ(夜の)と言う言葉を添えたとおり、夜の持つ、暗さ・
神秘・催眠にかけるような魔力が描かれています。ソナタ第7番を賛嘆する手紙をスクリャービンに送ったストラヴィンスキーも、"プロメテウスの直後の作品はいけない。"とこの魔力の
ことを感じ取って友人に書き送っています。 1912年から13年にかけて作曲された作品69の2つのポエムは、しばしばスクリャービン
がプログラムにも載せたもので、第一曲はスクリャービンらしい飛翔が描かれていますが、初期の頃の飛翔よりも、より高みに、更に天空の上へと、浄化されて行きます。第2曲は、
いよいよ切り詰められた音の響きで、詩的な世界が描かれています。
ソナタ第7番作品64(1911/12)は、ソナタ第6番の完成の直前に一気に書き上げられ、総て
の点で対照をなすものです。このソナタは、スクリャービンが"意思力のテーマ"と呼ぶ冒頭のシグナルによって始まり、それを"神聖なるもののイデー"の響きが支えています。その後
に叙情的な旋律が、副主題ながら中心となるテーマとして現れてきます。それは人間の感情からも叙情からもはなれた、"純粋な神秘"であるとスクリャービンはいいます。"このソナ
タは香りと蒸気を秘めている。浄化された神秘に近い。この静かな歓喜を聞いて見てくれ。・・・火花が散るようなテーマ、もしくは湧き出るような炎は、大天使たちのファンファーレが告
げるお終いの舞踏へと導く。それは本当に目も眩むようだ。これは、浄化されて物質からはなれる直前の喜びの踊りなのだ。"と友人に語っています。この曲は、全10曲のソナタ中唯
一、作曲者に"白いミサ"という名を与えられ、好んで演奏されたものです。このソナタは、未完のライフワークとなる、人類の救済を詩と音と光彩とで
描く"ミステリウム"に直結する作品と考えられています。
2004年4月27日東京文化会館小ホールでの、袴田和泉ピアノリサイタル"スクリャービン
の生涯と音楽を追って その5"の曲目解説
推薦書
私は1995年の夏に領家さんに出会い、以来数多くの彼女の演奏会を経験しました。芸術
家として、もちろん音楽学者・教育者としても、私は彼女を高い段階の人として評価しています。彼女の演奏芸術は、作品の正確な把握と、感銘深い音楽的かつ技術的にも裏付けら
れたアーティキュレーション、最も高い完成の段階に到達している響きの技術によって特徴付けられます。その際に、領家さんは正しくも、彼女の解釈した響きとフレージングの表象
が正確に実現されるように、ピアノのメカニックの構造とタッチにも特別な注意を払っていますが、このことはまた、数知れないほど多くの、歴史的、技術的また審美学的なものが、音
楽表象の芸術に与える影響というものに対して、彼女が敏感であることの証明でもあります。
領家さんのピアノ演奏の並外れた資質は、(より大きくなっていくコンサート会場の音響的要
求への反応の結果)近代から現代へのピアノの構造の進展・変化が、作品の適切な解釈にどのように影響を及ぼしているか、を彼女が熟知しているという事実の結果として現れて
きます。現代のピアノの構造は確かに、音の大きい楽器になることには成功しましたが、同時に、例えばモーリッツ・ローゼンタールやアルトゥール・シュナーベル、ウラディミール・ホロ
ヴィッツなどの録音で聞く事が出来る、ニュアンスに富み、歌うような、メトリックのしなやかさに富んだ演奏の伝統が更に続けられるのを阻むことになりました。この演奏文化の伝統
への目を向ける(更にそれを立派に続ける!)ことにより、領家さんには、ほかに例を見ないほどの明瞭さ、しっかりした形成力とニュアンスの豊富さで作品を演奏解釈することが出来
、それによって、これはどのように言っても過言ではないのですが、それぞれの作品が持つ内容の豊富さを彼女の演奏が、大多数の演奏解釈と違って、唯一のやり方で正当に表しえることになります。
私は領家さんを力をこめて推薦いたします。
2000年9月4日 フライブルグにて フライブルグ大学音楽用語辞典編纂室室長 Dr.マルクス・バンドゥア
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